「光輝くモーセの顔」
前回は「金の子牛」をイスラエルが作り、礼拝し、十戒に違反し、主に反逆したという話でありました。それにより神はイスラエルを全滅させ様としましたが、モーセは必死になって主とイスラエルの間を「とりなし」の祈りを持って「とりなし」をしたのでありました。
この時モーセは山を下り民の所に行き、主の手で書かれ十戒の石の板を破壊し、また、「金の子牛」の偶像も粉にした事で、イスラエルは全滅を免れたのでありました。しかし主は、「イスラエルと共に行く事はない」と語ります。何故なら神が共に行ってしまうと約束の地に向かう途中、イスラエルの民が罪を犯してしまい滅してしまう事になるからだ。と告げています。それは、イスラエルの真ん中に主が共におられるという民族のアイデンティティが、この時に無くなってしまいそうになったのであります。イスラエル人にとって、「全能の神が私と共におられる」という事が重要でありましたが、この時の罪により、「神は私と共にはいない」という未来が突きつけられていたのです。だから、主が共に行かない事は彼らにとってこの上ない悲しみであり、モーセは一生懸命とりなしの祈りをして、この状況を打開しようとしているのです。すると、モーセの顔は光輝き、イスラエルの人々は彼を見て恐れ、その事によりモーセは、彼の顔を覆ったとあります。今日はそこから2つのポイントで見ていきます。
ポイント1「顔を恐れる民」
モーセは顔が光っていた。光を放つ(カラーン)というのは、他の訳では「角の生えた」というモノもあり、モーセを描いた絵には角が生えている事があります。山から降りてきたモーセに角が生えていた。強い光は時に角の様に見えるという事もあり、モーセの顔は光り輝いていたのでしょう。そのモーセの顔が光輝いた、その理由は主との近しい関係があったからであります。そして新約聖書でイエス様は、神と近しい関係を持つものは、互いに愛し合う。その愛により、主はもっと近くにいてくださり、光輝くものへと作り替えられていくと告げています。私たちはイエス・キリスト愛し、神の友へとなり、愛に生きる者として、この暗闇の世の中の光を示す者として生きようではありませんか!
ポイント2「覆いをかけるモーセ」
モーセの顔が神の栄光により光り輝く為、民は自分たちの罪を示されたからなのでしょう。光り輝くモーセに神の姿を見て恐れたのでありましょう。イスラエル人達は、少し前、自分たちの為に金の子牛を作り、十戒を破ったという負い目もあり、神の栄光を写すモーセは、とても怖い存在だった事でありましょう。しかし、「顔が光り」主の栄光を人々に示す事、それは正しい事であり、顔に覆いを掛ける必要性は実際にはなかったのではないか?皆さんはどの様に考えるのでありましょうか。モーセは民があまりにも恐れる為、気を使った、今風に言えば空気を読んだと言えます。私たちは、いつでもどんな時でも、主イエスを愛し、そして隣人を自分の様に愛する。その様な神の愛に生きる信仰に生きようではありませんか!また、いつでも、主の栄光を隠す事なく大胆に、神の福音を述べ伝え人々の中でイエス・キリストの光を示していきましょう。