「エジプトの王との初対決」
モーセは主の召命を受け、来たくもなかったエジプトに来る事になり、イスラエルを解放する為に、エジプトの王パロに、主の御言葉を語りました。しかし、主なる神はその時、なんの奇跡も行わず、イスラエルの民からは呪いの言葉さえも告げられてしまいました。それはモーセが御言葉を告げた事で、かえって大きな困難が降りかってしまったのです。ただ主は、「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたに分かる」この様に語りました。その姿は、「モーセがパロの前で敗退した」これがモーセと王パロの初戦でありました。
ポイント1「特別な者だけに示される主の名」
主に出会う、「教会に来られる」というのは簡単な様で、実は私たち主の選びがなければ起こりはしません。モーセがホレブ山で主に出会った様に、私たちも主の選びにより、この教会で主によって呼ばれ、その声を聞いた者であります。なぜその様に主は呼びかけられたのか?というと主の御名を我々が追い求め、愛を行う為であります。神の愛の実を結ぶ為に我々は呼ばれたのであります。
ポイント2「主がしようとしている事」
この時のイスラエルの民、モーセ自身にも、主が何をなさろうとしているのか、理解出来ない時だったと思います。この時、エジプトの王パロからしてみれば「何で自分たちの奴隷を解放しなければならないのですか?神に仕えなければならない?」そうなるのも仕方ないでしょう。奴隷は言わば商品であり、200万人以上の奴隷を解放すればエジプトは大損害を受ける事になるのであります。「主と何者か?私は主を知らない」と王は語り、イスラエル民の労働は厳しくされてしまい、民の不平不満は、モーセとアロンに集中してしまい苦難は増す事になってしまいます。神はこの時に直ぐにでも、エジプトの王パロを打って殺す事さえできる方ではありますが、主はその様な方法で御心を示される方ではないのであります。エゼ 3:19では、主が預言者に対し告げた言葉を、悪者に告げ、その悪者が悪を悔い改め立ち返るのなら、その預言者も悪者も、命を救う事となる。と告げます。そうして全ての者が命を得る事が主の御心でありました。
私たち神に選ばれた者は、イエス・キリストの福音の為に、それぞれに与えられた神の召命を全うし、この地にイエス・キリストの十字架の福音を宣べ伝える者でありましょう。