6月2日 出エジプト記4:10~17

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「モーセ最後のあがき」

 

今日は出エジプト4章

3章においては、シナイ山で主が、燃え尽きない芝の中からモーセに対して語り、80歳になったモーセを召し出すという話でありますが、モーセ自身は、「エジプトには行きたくない」その心で、何とか自分が考え付く言い訳を主に宣べていました。

初めは、「私は何ものですか?」とたずね、主は「わたしは、あなたと共にいる」と、モーセのアイデンティティを、明らかにされました。

また、「神の名は何ですか?」その問いにも主は「わたしは『わたしはある』者である」と、ご自身が、世界の始まる前から存在し、現在も存在し、永遠に存在し続ける者、全て世界中の造られた存在の中にあり、全ての人々の中でも存在する神であり、全てこの神を信じる者にも信じない者にも「わたしはあなたのために神になるであろう」と、この時に御自分を現わされたのでありました。私たちが完璧ではない事等、我々以上に主は知っておられるのであります。神はモーセを神の似姿として創造され、彼を口の重いモノとして造られたのは神自身なのであります。だから私が「口が重い」なんて通じる訳がないのです。すると、さすの主は怒rますが、モーセの兄を補佐訳とし、演説は兄アロンに任せるとし、こうしてモーセは「行きたくなかった」主の召しに従い、神の杖を片手にエジプトへと向うのであります。

 

ポイント1「誰が付けた口」

モーセという人間は、確かにリーダーとしての資格や能力が十分であるとは言えません。彼にはイスラエルの民、200万人の上に立つリーダーとなるのには不十分である事を彼自身が知っています。彼の口は重く、衝動的でネガティブなのであります。また彼は、40年前、イエスラエル人を助けようとして、エジプト人を殺したのに仲間からは裏切られ、人殺しとなり指名手配になり、イスラエルが嫌う外国の女性と結婚し80歳になった老人なのです。

しかし、ロマ書11章29節が伝える様に、神の賜物と召命は変わる事がなく、またこれからも変わりません。この神は、クリスチャン一人一人を集め、それぞれの性格や身体能力としての賜物を与え、神からの召命として、それぞれに行うべき仕事をお与えになっているのであります。

 

ポイント2「さあ行け」

この様に、モーセがどれだけ相応しくないと自分が思っても、主は必ず召命したものを使わし、その御心は必ず成就すると聖書は告げています。それはイエス・キリストでも同じ様に、イエス様は十字架に行く前は、「この苦い盃を取り除いてください」と祈っており、またその盃は取り除かれませんでした。しかし、その最後は三日後に復活の勝利を与えられました。なぜなら、主は必ず共にいるという約束は変わらなかったからであり、その事にからも、主に従う者に必ず勝利を持たらす、御言葉は変わる事はないのであります。

私たちは主の御言葉を信じ、強く雄々しく信仰に生き様ではありませんか。