「主の山に備えあり」
この創世記22章は、アブラハムの物語の中で、最も有名であり、そして聖書全体を見ても解釈に患難な箇所の一つであります。
イサクは、アブラハムは100歳、妻サラが90歳の年齢の時に生まれてきた約束の子です。
そして、このイサクにより、アブラハムの子孫は空の星の様に、また海の砂の様に増え広がると主が告げられていた、彼らにとっての唯一の希望であったと言えるのでありましょう。しかし、その時から約20年過ぎた頃、神はアブラハムに対し、とても辛い試練に会わせられるのでありました。この時の試練とは、アブラハムの一人子、自分よりも大切だと思った息子イサクをモリヤの山の上で、全焼の生贄として捧げなさい、その様な耳を疑うモノでありました。何故この様な事を主は望まれたのか?神の御心は時に我々にとって計り知れないモノであり、何故と私に問いかけられても全てを理解はできないといわざをおえません。その苦難の中にあるアブラハムとイサクの信仰についてのお話です。
ポイント1「試練」
神は試みる方であります。神は何故、人に試練を与えになるのでしょうか?しかも、神を信じない者ではなく、信仰の父アブラハムを神が試練に会わているのです。試練とは、「試みる」、「試す」という事だと辞典にありました。ギリシャ語で使われている試練(ドキミオン)は「試験済みの、検証済み、最善のもの」という信仰の純粋性を現わしているといいます。もし、様々な製品が製造される時、製造の最終肯定において必ず試験、検査というものがされるモノであります。その試験にパスできれば完璧なモノとして世の中に出て行き、ダメなら悪い所に修正が施されて、もう一度、試験にあうのであります。その様に考えるのなら、アブラハムの最晩年に、最愛のイサクを捧げるという出来事が起こり、アブラハムの試練は、神の御前の最終検査、最終試験であって、その試験にアブラハムは信仰によって答え、神はアブラハムの信仰を証明したのだと見る事ができるのであります。それは、イエス様の勝利にも言える事で、地上の生活の最後、十字架での苦難とその死であり、またその死からの復活によって、神の義をしめされています。神は完全なお方であり、その御前に行くモノには、この試練を通る事となるのでありましょう。
しかし、この試練は苦しみで終わるでは無く、必ずその後に起る、勝利の前触れなのであります。私たちはこの試練の時にこそ、苦難の後にくる勝利を確信するのであります。
ポイント2「備え」
神は備える方であります。「イルエー」に関しては「備える」というよりは、主が「見られる、現れる」、この山で主が現れるとなります。主なる神は、私たちの苦しみを知っておられ、その中でも主に従うのなら、主はその苦難の中で私たちの目を開き、必要な備え神が私たちに見せるのです。私たちに与えられた完全なる神の備えとは、十字架の上で死んだイエス・キリストであります。
このイエス・キリストに私たちが悔い改め、自分の命を捧げる時、主は永遠の命を備え、天の御国へと導くと聖書は告げており、私たちはイエス様を信じ歩んでいきましょう。