「時代は移っても」
手紙が届くと普通は差出人の名前を見ます。しかし、この手紙には名前がありません。長老のわたしからとあるだけなのです。この人は教会の指導者なのでしょう。長老とは指導者のことだからです。必ずしも年配の者というわけではありません。自薦で長老になるのでもあない。共同体が自然にこの人が信仰からも霊性からも指導者にふさわしいと認めて下さるのです。そういう背景から名前を書かずとも、あの長老だとわかる関係性だったのでしょう。
私たちも無名であっても匿名であっても関係ありません。有名になることが生きる目的などではないからです。自分の名前を憶えていただく以上に大切なことは私たちを通してキリストが知られることでしょう。福音が届くことでしょう。誰がしたことかは忘れてしまったが、あの時あそこに確かに主がおられた、あそこで人が救われたのは確かだと証しされるように生きていくことは目指せないものでしょうか。
相手は選ばれた婦人とその子たちです。元々は実在の個人あての手紙だったのかもしれません。しかし時代とともに選ばれた教会とその兄弟姉妹として読まれるようになっていったいきさつがあるのでしょう。信仰共同体を女性にたとえる表現は旧約聖書以来の伝統だからですし、教会とは神に選ばれた群れなのです。長老は彼らを真理のうちに愛しているというのです。ここでは真理と愛がまるでセットのように語られていきます。
真理とはもちろん正しいものです。だからでしょうか。教会では正しくあることが強調されます。しかし、気を付けないと、ときに行きすぎも起こります。正しくあろうとすることに勢いあまって愛を忘れてしまうことがないわけではありません。正しさを振りかざす中で人間関係が壊されていく。しかし、本当の正しさとは人間関係の中に愛を保つもののはずなのです。愛するということの中だけに正しさは現れてくるのです。
そもそも真理とは抽象的なことではなく、キリストご自身のことです。キリストを知り、キリストが私たちのうちにおられ、時代がどんなに移り変わっていこうと永遠に変わることのないキリストに根差すのです。そうである以上、キリストにある者として生きていくとは、主が愛であられたように愛という形になって必ず結晶し、実を結んでいくもののはずではありませんか。
新しい1年が始まりました。社会はどう変化していくかわかりません。しかし、私たちは愛のうちに実を結んでいくことを祈ります。キリストの愛が私たちから現れてくるように求めるのです。愛とは相手あってのことです。特に兄弟姉妹の中に互いの愛が見られるならば、目に見えなくても確かに主がそこに生きておられることが証しされていくことになるでしょう。それこそが真理の持っている正しさなのですから。