「関係者」
第三ヨハネは、わずか15節ほどの長さで、新約聖書でも一二を争う短さです。短編小説のような切れ味とも言えます。ただし、書き手は名前を名乗っていません。長老のわたしと自己紹介するにとどめています。送り手のガイオも当時、よくある名前です。新約聖書には実際、何人ものガイオが登場しますが、あるいはどのガイオでもない、別人かもしれません。つまり名乗らない者から、よくある名前の者への手紙。個人情報が限られています。
ただし、関係性についてははっきりわかります。真実に愛している関係なのです。それだけで特に名乗らなくても、あの人からだと分かる関係。なぜでしょうか。真実に愛しているからです。福音において愛していると言ってもいい。福音は机上の空論ではない。イエス様の愛に基づく以上、具体的に愛するという関係性を生み出していく力なのです。福音に生きる者は必ず、相手との間の愛を具体的にあらわしていく者なのです。
そもそも長老とは、み言葉を分かち合う働きをします。み言葉を教えるのです。み言葉を教えるとは知識の受け売りではないのです。み言葉に生きることを証しするのです。神の言葉に生きるとは、相手との間に愛が働くこと抜きに成り立たないのです。自分の存在をすべて相手に差し出すまでに。それはキリストの愛だけがなし得る新しい生き方です。だから、ヨハネはこの短い手紙で何度も愛する者よと呼びかけるではありませんか。
考えてもみてください。私たち人間は、本来、相手を自分のために利用しようとする考えから抜け出せそうにない。自分にとって相手がどの程度価値があるかどうか、無意識にはかろうとします。無価値だと判断すると簡単に切り捨てもできる。しかし、そういう者が福音によって変えられるのです。神の愛を知って、神の愛をあらわす姿へと。福音によって、これほどの変化がもう私たちの上に起きています。
では、どのようにして相手に神の愛をあらわしましょうか。どのような行動に出るにせよ、基本になることがあります。それは相手のために祈ることです。2節の表現は、当時の手紙によくみられる言い回しで、聖書以外にも頻出します。もともとは旅の安全を願う表現なのです。これは信仰があろうとなかろうと共有できる感覚で、当時は旅と言えば危険がつきまといましたから、神の守りぬきにたどり着けない実感があったのです。
私たちの人生も旅にたとえられます。旅にはハプニングもある。未知の経験もする。危険も災いもつきまといます。だからこそお互いにそれぞれの人生に関心を持ち、相手の祝福を祈りあう必要はあるでしょう。愛の反対は無関心です。相手がそんな大変な目に逢っているとは、自分のことに夢中で知らなかったでは問題でしょう。共同体に生きる関係者どうし。互いに祈りあうことで愛は育まれていきます。祈りのあるところに確かに主はご一緒です。